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三連休を利用し、私のボランティア活動を後方支援してくださった女性達に声をかけて 南三陸町と栗駒山を訪れました。 私としては今後の支援の方向を探る再訪と共に、ナカナカ現地に赴くことが出来なかった方に 現地を見ていただいて感じていただきたいという思いがありました。 これは以前から現地の方やボランティアに関わってる方が感じていたことです 「先年に一度あるかないかの大震災、折角だから見に来て!そしてココから学んで欲しい」と 前向きに進もうと思い始めた多くの人が思っています。 そして私自身が感じたのは以前私が関わった4月~6月頭より皆さん話をするようになってるということでした。 今でも瓦礫撤去をボランティアツアーなどで来てやられている人にも頭は下がりますが とにかく現地に行って泊まって食べて買って、立ち上がった人達を後押しできるように出来れば良いなぁと思ってます 次回は人数を増やし地元ドライバーを使って 「南三陸町&栗駒山・平泉ツアー」を作りたいと思っています 具体的には10月18日(火)~20日(木) 仙台集合で歌津2泊(2朝食・2夕食・2昼食付・温泉1回付) 栗駒山登山と田束山登山&平泉観光 38000円(仙台までのバスが往復約7000円であります) 是非一緒に歌津を応援に行きましょう!ご相談はこちら 以下は今回参加してくださった方のコメントです ****************************** 千春さん 今回は本当にどうも有難うございました。 企画もさることながら、長時間の運転をお願いしてしまい 心苦しい限りです。感謝いたします。 皆様 3日間、大変お世話になりました。どうも有難うございました 今回、実際に被災地に赴き、被災された方々のお話を 伺えたのは、本当に本当に良かったです。 今回の経験をどのように生かしていくかについては 少し時間を掛けて考えて行きたいと思います。 いろいろとお話を伺う中で、宮城・岩手の方々については 既に次のステップに移られていることを感じました。 今までのような支援ではなく、経済自立・産業等の 段階に入っていると、 ボランティアという個人レベルの支援はもう必要ではなく もっと大きな組織・企業・団体での産業育成支援が 必要な時期なのかな?と思いました。 (関心を持たなくなるという訳でも、忘れてしまうということ でもないのですが。) この先は、私のような個人が出来ることは 地元の方が皆さんで自然と前に向かえるような —今回のように観光に訪れてお金を落とす—といった ことなのかな?と思いました。 その一方で、福島に関しては出口の見えない迷路で 個々のレベルで出来る支援が何なのかさえ 見えないもどかしさを感じています。 宮城・岩手のように経済自立の支援も、 というか、未来が描けない。。。 どうしていいかも個人のレベルを超えてしまっています。 9時前に帰宅できたので、洗濯したりPC立ち上げたりで こんな時間になってしまったので、これにて 皆様への御礼とさせていただきます。 三奈子 ************************************************************ 9月23日から25日まで宮城の南三陸町に行ってきました。 目的は登山と 、被災地の視察でした。 被災地の視察は、震災後6か月の現状を見ること、 現地の方たちのお話を聞くこと、その上で千春さんがスロベニアで集めた募金をどうやって 有効活用するかを考えることでした。以前スロベニアから送られた仮設住宅がどう使われているかの確認と、 仮設住宅を有効に活用するために何ができるかを考えることも目的の一つでした。 ミシンを新たに購入して、デザイン性のある洋服を作り販売につなげるのはどうかというアイディアを持って行きました。 また、南三陸町を支援するにあたって、今後は観光面で盛り上げていくことが 被災地の人と経済を元気にすることにつながるのではないかということで、 現地の宿に泊まり、現地でものを食べて買い物をし、現地にお金を落とすことも 千春さんの企画した今回の旅行の趣旨でした。この構想については現地の方たちとお話をする度に、 被災地復興のためにできる事の一つとして千春さんが提案し、みなさん賛同していました。 23日の午後、南三陸町に到着しました。 津波の被害にあった町に入ると病院などのしっかりした作りの建物以外は土台から根こそぎなくなっていて、 見晴らしの良い風景が広がっていました。ところどころに大きながれきの山があり、 津波にもまれて小さくなった車が転がっていました。志津川病院は建物は残っていましたが、 4階の窓まで全部割れていて、中は天井までぐちゃぐちゃになっているのが車の中からでも見えました。 志津川の役所の建物は鉄骨の枠組みを残すのみで、壁や床すらありませんでした。 青い空と穏やかな海を背景に、非現実的な風景が広がっていて、 初めて目にする知らない町の被害を前に、正直どういう感情を抱いたらいいのかわかりませんでした。 夕方現地の方の案内で田束山(たつがねさん)に登りました。 車から降りて10分ほど歩き山頂に立つと、リアス式になった海岸線が一望でき、 大船渡や気仙沼の方まで見えました。津波の被害で海岸線がボロボロになっているように見えて 痛々しかったですが、素晴らしい景色でした。 田束山の歴史を解説してくださったOさんのお話はとても面白かったですが、 震災に関するお話も道すがらしてくださいました。 同居していた旦那さんと息子さん夫婦、そして4歳のお孫さんを津波で流され 一人生き残った女性がいつも夕方一人でぽつーんと座っていること。 その方が、お孫さんの好きだった芝桜が咲いたと喜んでいたお話。 親と奥さんを、家にいれば安全だからここを動かず待っていろと言って家を出て、 津波に巻き込まれて命からがら生き延びて、無事なはずの家に帰ったら二人が流されていた、 そのことを生きている限りはずっと悔やむと言っているという男性のお話。 国は漁に出るための船や道具のお金を出してくれるのかという質問に対しては、 すべての漁師に行き渡るだけの船が無い中、それを平等に使う方法についてもめてしまい、 前に進めないこと。また、まだ遺体が打ち上げられる海から漁をすることに対して 漁師たちの中にためらいがあるというお話が印象深く残りました。 24日は栗駒山に登りました。紅葉で有名な山ということでしたが、 紅葉の開始には1週間ばかり早かったようです。けれどもよく見ると色づいている葉があり、 秋の訪れを感じました。登り始めから頂上までずっと見晴らしの良い、 気持ちの良い登山でした。下山して温泉に入りました。 そのあとは仮設住宅にお邪魔しました。 仮設住宅は長屋の様に隣同士が連なっている構造で、 家に入るとまず台所とトイレのあるスペースがあり、その奥の左側が寝室で、 右側が居間という作りになっていました。たいへん狭いです。 朗らかなTさんが私たち5人を暖かく迎えてくれました。 途中から加わった区長さんも一緒に、お話をしてくださいました。 お二人は、震災から6か月経った今、被災地は物資の支援に頼っている現状を脱して 自立を考えていく段階に入っていると考えていました。 区長さんは、被災地に来た人たちにも、そこから人生の糧になるものを 何かつかんで帰ってほしいと仰ってくださり、ありがたい気持ちで頭が下がる思いでした。 Tさんは穏やかなお顔で、「1000年に一度の経験をさせてもらったんだもの、 感謝しなくちゃ」と仰っていました。家をなくして仮設住宅に入っているのに、 前向きな人というのはどんなことにも良い面を見い出すものなのかと、 今でも思い出しては圧倒される思いです。 その日の夜は、宿泊していた民宿の「やすらぎ」の女将さんの震災体験を聞きました。 地平線が盛り上がって津波が来ていることを悟ったこと、 漁に出ていた旦那さんと息子さんに急いで陸に上がるよう叫んだこと、 食べ物やお風呂の無い追い詰められた生活のこと。 孤立した宿に食べ物やお風呂を持って助けに現れる人たちの話。 大きな避難所から、衣服の入った箱をご主人が持って帰って来て、 中身を空けたらろくな洋服など残ってやしなくて、 やすらぎに詰めていた避難民は誰も欲しがら無かった時、 女将さんは、「ここの皆が着たくない服でも、発展途上国に持って行けば欲しい人たちがいるのだから、 きちんと綺麗にたたんで箱に詰めて戻さなければいけない、 決して粗末に扱ったり捨てたりしてはいけない」と言ったという話に、 区長さんに通じる人間の大きさを感じました。 被災していても、さらに人を思いやる気持ちの尊さを教えられました。 25日は、スロベニアから送られてきた仮設住宅を見に行きました。 そこで、そこの地区の区長さんともう一人の責任者の方二人の男性と、 今後の仮設住宅の有効な使い道や、復興のためにできることの可能性についての話し合いをもちました。 昼食をとって岐路に着きました。 被災地のガソリンスタンドのご主人や、タクシーの運転手さん、 南三陸町で会話を交わした全ての人たちの言葉や姿勢から、 報道だけでは知り得なかった被災地の現状と、 人生に対する姿勢を学んだ意義の深い旅行でした。 真名美 |